「狩り」というものについて
むかしむかし、潮干狩りに行ったようだ。
とても小さい頃だったので、全く覚えていない。
親から聞いた話と、アルバムに残っている写真でしか知りえないのだが、どうやら行ったらしい。
この潮干狩りというものは、必ずみんなアサリを山ほど抱えて帰ってきて、近所に配ってもなお余り、何日も3食アサリ三昧だと聞く。
こんなものに私が行ったというのが不思議でならない。
なぜなら私はアサリが嫌いだからだ。
当時も無論嫌いだったから、きっとただ単に砂遊び感覚でいっていたに違いない。
現にスコップ様のものを手に持って楽しそうにしている幼児の私が写真で残っている。
それにしても、この「なんとか狩り」というものは実に不思議なものだ。
イチゴ狩りにしてもさくらんぼ狩りにしても、この潮干狩りにしても、狩り放題といいながらも結局は買取方式である。
その場で食べる分はただだけど、持ち帰り分は1パックいくら、というようなやつだ。
それも買取の値段にしたって、そのへんのスーパーの金額に比べるとべらぼうに高い。
往々にして内容はそれにしても、というものが多いが、やはりそこはレジャーであって、その楽しい時間の値段が付加要素として加わっているのだろう。
だから私がどうしても理解できないのが、メロン狩りである。
メロン狩り、一個狩っておしまいなのだ。
狩るというか、一回はさみを入れただけで終了である。
メロン好きの身としては、メロンのなり方を目で見れた上、自分でかりとれるのだから大層素晴らしいチャンスではあるが、果たして「狩り」をつけていいものか。
「狩り」の概念を考えさせられる事象である。